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Vol.3  <Full  of  emotion>
妖精と赤いバラ。
1992年5月。優勝候補の最右翼としてヨーロッパ選手権に乗り込んだユーゴ代表チーム。初戦を控えて待機するスウェーデンのホテルの一室で、一人の男が届いたばかりの一枚のファックスを握り締めて立ちつくしていた。
「ユーゴスラビアの国際試合参加を一切禁止する」
ボスニア紛争への制裁措置として、国連と欧州サッカー連盟が下した結論だった。
90年W杯イタリア大会で新たな時代を予感させるベスト8。87年のワールドユース優勝メンバーを中心としたユーゴ代表は、選手がピークを迎える94年のW杯で優勝候補の一角となることが期待されていた。ヨーロッパ選手権の優勝予想も大会前からユーゴ一色。<東欧のブラジル>と呼ばれた国が世界を席捲しようとするその寸前、無情にも扉は閉ざされたのだ。
たった一枚のファックスが、その部屋の時間を止めた。屈強な代表チームを率いる177cmのキャプテンに、傍らにいたユーゴ・サッカー協会会長がようやく重い口を開く。
「他の選手に伝えろ」
しかし、彼は動けなかった。繊細かつ華麗なプレーで“妖精”と呼ばれた男。ストイコビッチには、ただその場で泣くことしかできなかった。
ユーゴが国際試合に復帰を許されたのは2年半の後。5つの主要民族と6つの共和国から成る連邦国家ユーゴスラビアは分裂の道を歩み、27歳だったストイコビッチは30歳を迎えようとしていた。

レッドスター・ベオグラードのスター選手だったストイコビッチは、90年にフランス1部リーグのマルセイユに移籍する。しかし、カントナ、デシャン、デサイーたちがリーグ4連覇を達成したチームの10番は、膝の故障を抱えて不本意な時期を過ごさねばならなかった。さらに不運は続く。マルセイユの八百長試合が発覚し、チームは2部降格、タイトル剥奪という制裁を受けたのだ。多くのビッグネームがチームを去る中、ストイコビッチも選択を迫られる。その時、日本という未知の国を選ばせたのは、膝の故障が原因なのか、それとも傷心のヨーロッパからの逃避であったのだろうか。
<W杯史上最も美しいゴール>を記憶に残してくれたストイコビッチのJリーグ移籍。それは衝撃的なニュースだった。ヨーロッパのサッカージャーナリストたちは、その国にプロリーグはあるのかと訝った。ストイコビッチ自身も、日本でプレーするのは6ヶ月間だけのつもりだったと告白している。しかし、日本でのプレーは思いがけず7年間に及んだ。リーグ優勝こそ実現しなかったが、その優雅なプレーはフットボールが芸術の域に達するスポーツであることを教えてくれたのだ。彼が日本を引退の地に選んだのはいつの時だったろう。日本での代表最終戦となったキリンカップで、ストイコビッチは日本戦への出場にこだわり、大事を取ってパラグアイ戦を途中交代した。
「どうしても日本戦には出たいんだ。僕と日本のサポーターとは特別な関係ができているから」
ストイコビッチのプレーは、ファンタジックではない。華麗なるスペクタクルだ。彼の7年間のプレーは、日本のフットボールファンにとって幸運だった。ヨーロッパでは非運に見舞われたストイコビッチ。7年の日本滞在は、彼にとって幸福だったのだろうか。日本のサポーターたちが幸せであったように。

7月14日、瑞穂陸上競技場。ストイコビッチの最後のホームゲーム。自らのPKで延長戦を制したその試合で、グランパスサポーターに配られた5000本のバラ。それは引退する妖精、ドラガン・ストイコビッチからの贈り物だった。何色のバラであったか本当は知らない。けれど、僕のイメージの中で、そのバラは真っ赤に燃えている。ありがとうピクシー。
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